■2008年度新春特別企画
小池一紀師範代インタビュー
PART2: 中村誠師範との遭遇
極真は体育会系の究極の姿ですからあの当時は後輩をしごくことはあったかもしれませんね。そういった一種シゴキ的な組手に中村師範も参加されていたのですか?
いえ、中村師範に限っては一切なかったです。逆に後輩に対してすごく思いやりがあった先輩でした。私が入門した当時、師範は食品調理関係の会社で勤められていたんです。そして私も会社勤めをしていました。同じ社会人として親近感があったのだと思います。師範はよく私に声をかけてくださいました。雲の上の存在である中村師範から声をかけていただき非常に恐縮していたのを覚えています。その後、師範は空手に専念するため会社を辞められ、本部の専属指導員として生活されていました。今から思うと経済的にも苦しかったと思いますよ。師範から「今日、一杯いくか?」と声をかけていただき、私はもちろん「押忍」の一言です。でも連れて行ってもらえたところは自動販売機ということもありました(笑)。そこでビールを買ってもらい道端で飲んだりしました。
いい話ですね。
師範が特に親しくしていただいた後輩は私も含めて4,5人いたのですが、よくいろんなお店に連れて行ってもらいました。当時は師範が金銭的に決して恵まれていないなんて分らないもんですから遠慮なく飲み食いさせてもらってました。でも中村師範は経済的なことは億尾も出しません。常に明るかったです。その明るさは稽古内容にも表れていました。
師範代は主に中村師範の稽古を受けられたそうですが、その当時の師範の指導方法とはどういったものだったんでしょうか?
指導内容そのものは他の先輩達とかわりませんでしたよ。前述したように基本から移動そして組手という流れで、技に対する説明もそれほどありませんでした。ただ師範の一般稽古はテンポが出るんです。とにかく2時間無駄がなかった。よどみなく、川の流れのように時間が過ぎあっという間に終了という感じです。稽古の進め方が抜群にうまかった。このリズムはもって生まれたものでしょうね。それから稽古全体に明るさがあった。これは師範の性格がにじみでていたんでしょうね。
稽古内容は他の指導員と変わらないにもかかわらず、そういったテンポや明るさが出るというのは不思議ですね。
そうですね。多分それは中村師範と道場生の間にできていた信頼感から生まれてくるものだと思います。先ほど言ったように、師範は後輩の面倒見が良かった。自然と後輩たちも師範に親近感が湧きます。師弟の間に信頼関係ができればおのずと稽古も盛り上がってきます。こういった厳しさのなかにも明るさを失わない稽古、よどみのないテンポの良い稽古は現在の中村道場指導員に引き継がれているはずです。
確かに中村門下指導員の指導技量水準は高いですね。
それは中村師範のDNAが受け継がれている証拠です。私も含めて古参の黒帯は師範の影響を直接受けています。そしてそれは中堅の位置にいる指導員たちに受け渡されました。たまに他支部から出稽古に来る道場生がいるんですが、彼らの一貫した感想は「中村道場の稽古はとにかくリズムが良い」ということを言いますね。
小池師範代は中村師範のセコンドに付かれた経験もお持ちなんですね。
全日本大会の時に付かせていただきました。第10回大会開催前に本部からスタッフを道場生から公募していたんです。「これはタダで大会
を観られる」と思い真先に応募しました。でも割与えられた仕事は駐車場係りでした(笑)。翌年の11回大会では前年の苦い経験があるのでスタッフとして参加しませんでした。その頃には中村師範に親しくさせてもらっていたのでセコンドに付かせてもらえました。本当に光栄でした。しかもその大会は師範が全日本優勝を飾った大会だったんです。試合場間近で見る師範の組手は迫力満点でした。とにかく次々と相手を倒していくんです。圧巻でした。こんな先輩の後輩でいられることを誇りにも思いました。
師範は稽古も熱心にこなされていたんでしょうね。
とにかく真面目に黙々と稽古なさっていました。師範は確かに体格にも恵まれていたかもしれません。しかしあれだけの体格を自由に操るには相応の稽古量が必要なはずです。当時、帯研が週2回あり大山総裁が指導されていました。基本、回転の移動、約束組手、型が主な内容だったんですが、これが一般稽古にも増してきつかったです。総裁が海外出張等で本部にいらっしゃらないときは高段者の先輩が指導していました。たまに総裁とその先輩の両方がおられない日があったんです。そういう時はみんな結構リラックスして近くの公園でソフトボールなんかをすることもありました。ただ中村師範は加わりませんでした。公園の周りを合羽を着て黙々とランニングしていました。とにかくよく走っていました。師範のスタミナはあのランニング量が根底にあったと思います。11回大会で優勝して第2回世界大会出場権を獲得された後、武者修行のためアメリカに渡られたんです。アメリカの他にもアフリカにも招待されていました。あの頃は世界の中村としてその名声が徐々に確立されてきた時でしたね。
その後、中村師範は第2回世界大会で優勝されるわけですね。このあたりから小池師範代の環境にも変化が現れたと以前お聞きしましたが。
そうです。その頃私は入門して2年が経過していました。帯は茶帯でした。ただ仕事の都合で道場から足が遠のいていた時です。中村師範は世界大会で優勝したのち大山総裁より支部長の認可状をもらい兵庫に行かれました。師範と親しくされていた数人の黒帯の方々が本部から師範についていかれました。そしてほどなく芦屋市の仏教会館に道場を設立され中村道場の歴史が始まったんです。私は勤めていた会社の本社が大阪にあったのですが、本社異動を会社に申し出たんです。すぐに了承され大阪に戻ることになりました。しかし引っ越しが済み生活が安定するまでの間の1年間極真の稽古はできませんでした。そこへ西日本大会開催のニュースを聞いたんです。
西日本大会というと現在のウェイト制大会の前身ですね。開催年は確か1983年の今から25年前のことですね。あの時の師範の演武は凄まじかったです。
ブロックの宙づり正拳割をやられたんですが、演武準備に慣れていないスタッフが硬式ブロックを用意していたらしいんです。これはコンクリート密度の高いブロックで通常のブロックより強度が格段に高いんです。固定された状態であれば師範の突きをもってすれば難無く成功されたと思います。ただ宙づりの不安定な状態ではそうはいきません。私を含めた観客はそんなことは勿論知る由もありません。師範は何度かそのブロックに向かって突きを出されましたが、割れませんでした。その代りに聞こえたのは骨の砕ける音でした。さらに凄かったのが、このブロック割の後、手刀氷柱割をされる予定でした。砕けた手では中止するしかないと誰もが思ったはずです。しかし師範は最後までやりきりました。折れたはずの手で渾身の力をこめてあの厚い氷を割ったんです。その強い精神力に感動しました。
あの演武は私も間近で観ることができましたが、体が震えましたね。大会では師範に挨拶されたんですか?
大会が終わり会場から出たところで師範が来られるのを待っていたんです。その時にご挨拶しようと。なにせ本部時代から一年以上経ってますから。とにかく自分が大阪に戻ったことをお伝えしたかったんです。そうしていたら師範が車の助手席に乗って出てこられました。病院に行く途中だったんですね。早速、車に近づき挨拶すると、師範は折れた手を別な手で支えながら「おお小池君久しぶりだねー。尼崎と芦屋を頼むよ〜」とだけ笑顔で言われて去って行かれました(笑)。これで極真への再入門が確定しました。あれだけの大けがをされたにもかかわらず、そんなことは微塵も感じませんでしたね。
PART1 生い立ちから本部での稽古
PART2 中村誠師範との遭遇
PART3 極真の本質とは?